介護する側が、される側からのハラスメントについて問題になっているようなので
介護について考えてみますと…
介護されない人生を目標にしていても介護される側になったとき、
可愛がられるおばあちゃんでいたいな、介護されないまま死ぬしても可愛いおばあちゃんになりたいな、
ということをこれからの目標にかかげていきたいなと思いました。
うちの母は、祖母の介護と仕事の両立を選択しませんでした。
火葬場で施設に入ってたから長生きできた、と母がつぶやいたとき火葬場の人も私も、ぎょっとしてしまうぐらい、まだまだ介護は自宅ですべきと言われていた時代でした。
ギリギリまで、祖母は自宅にいましたが、夜中に俳諧しようとして、階段から落ちて骨折したあたりから、施設に預けることになりました。
はじめに入所した場所は、こちらが介護料を払って、必要な物資(おむつなど)を毎週、家族が届けるタイプ。
わたしは個人的にはこっちのほうがいいのではと思ったのですが、
母はそれさえも負担に感じたため、年金手帳を丸ごと施設に預けて、全て丸投げ出来る施設に入所させることにしました。
施設に入ると、認知症の症状はさらにすすみ、母以外、かろうじて父の顔ぐらいまでしか家族の顔がわからなくなってしまいました。
そんな状態の祖母の最後の救いはなんだったのかと、
改めて思い返すと…、
もともと、物静かーな人だったということもありーので、
耳も遠いし、なにを言われてもニコニコっとして、文句言わないし、
大人しくて、ご飯食べるし、介護士に反抗したりたてついたりしないし、
母が、施設に様子を見に行く度に、
“品があって色白でカワイイおばあちゃんですよー“
とスタッフからよく言われていたそうです。
これこそが、最後の救いだったように思います。
明治生まれで、いつも着物を着てお店にたってた祖母…、
戒名は白玉なんちゃらだったぞ、
今考えると、めちゃくちゃ粋なばあちゃんだったのではないだろか…、
そんなわけで、母はピンピンころりで介護されない人生を選ぶと宣言して、
毎日、朝8時前に1万歩以上ウォーキング終了、週二で太極拳、
存命中の兄弟の山の中の別荘(小屋に近い)で定期的にバーベキュー、
つぶれそうなお店の店番の仕事と自転車預かり…、
どこからともなく野菜や果物が届くため、飢え死にはしない…
てなわけで、
やせるの目標の他に、
よし、わたしも、母のように介護されないピンピンころりめざして、可愛がられるおばあちゃんになるぞ!
って目標ができました、、
そんじゃーね!ばーい。